甲州街道とは

 慶長5年(1600)の関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、全国統一の一環として交通網の整備に着手した。江戸・日本橋を起点に五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)を整備した。これらの街道は幕府の道中奉行の管轄下におかれた。

 甲州道中は『五駅便覧』によると、江戸より下諏訪までは53里2町23間(約208.5km)とある。甲州道中は44の宿駅がおかれたが、元禄11年(1698)に内藤新宿が新設されて45宿となった。五街道のうち日光・奥州・甲州の三街道は当初「海道」と呼ばれていたが、正徳6年(1716)海端の道ではないとの理由で、正式の呼称を「道中」と記すようになった。しかし、このホームページでは一般的な呼称である甲州街道を用いることにする。

 中山道(日本橋→三条大橋)は135里22町(約535km)の距離に宿駅は69あったが、甲州街道は45宿、距離は中山道の4割もないのに宿場が多い。なぜだろうか? 参勤交代のために通行した大名は、信州の諏訪高島藩、伊那の高遠藩、飯田藩の三家のみで、あとは幕府と甲府勤番など公用通行は少ない街道であった。だが、富士登山の富士講、身延参りの身延講、江戸に近いため民間の物資を運ぶ中馬という輸送業者の往来もあった。

 甲州街道は二宿以上で交代務めをする合宿(あいしゅく)がある。例えば下高井戸と上高井戸間は1.6km、旅籠も各々2~3軒しかない。そのため宿駅の業務を一宿だけでは果たせないので、一カ月のうち半分を上と下で問屋業務を務めた。また小原や与瀬のように上り下りの片継もある。そのため甲州街道は一般には45宿32次といわれる。
 変則的な宿継(次)になったのは、宿間が短く、交通量も多くなかったからと思われる。江戸時代は、日本橋から下諏訪まで約5~6日間の旅だったという。実際に歩いてみると、現在の国道20号を出たり入ったり、いまの大月市内には45宿のうち12宿もあるが宿間の距離は1~2kmと短いのが多い。「もう次の宿場?」というのが実感だ。


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