用語集

甲州道中宿村大概帳

 江戸幕府の道中奉行が五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)を中心に調査した道路と宿駅の記録。本稿で示された本陣・脇本陣、旅籠数などは、天保14年(1843)の調べである。「大概帳」には、宿石高、宿内町並みの長さ、家数、男女別の人数、本陣・脇本陣の坪数、旅籠屋の軒数、高札場数、問屋場数・問屋場役人数などがこまかく記録されている。たとえば旅籠屋(大・中・小)、各宿間の荷物人足賃の規定、朱印地の寺、橋の長さ・幅などもある。甲州道中宿村大概帳は、天保時代の宿駅状況を知るめやすになる。なお、道中奉行所が実地の測量などで作成した「甲州道中分間延絵図」(ぶんけんのべえず)がある。絵図で当時の街道の状況(宿村や社寺など)がわかる。

合宿(あいしゅく)

 五街道の宿駅の重要な任務に公用旅行者、公用荷物や通信物を次の宿場まで運ぶという業務がある。各宿場は、東海道は100人・100疋、中山道は50人・50疋、他の三街道は25人・25疋の基準で人と馬を用意した。そして問屋場の役人がその任務にあたった。甲州道中は、東海道53次・中山道69次とくらべ、短い距離に45宿と多い。しかも宿間は短い。そのため一カ月のうち下高井戸と上高井戸は15日勤め、布田五宿は6日勤め、下鳥沢と上鳥沢は15日勤めなど交代で宿継の業務をしていた。また小原と与瀬は上り下りの片道継立という変則な宿継をしていた。甲州道中の参勤交代は三藩(諏訪高島藩、伊那の高遠藩、飯田藩)と少なく、短い宿間、交通量は他の街道ほど多くなかったなどで、合宿が生まれたと思われる。一般に甲州道中は45宿32継(次)の街道といわれている。

参勤交代

 徳川家光時代の「武家諸法度」で、参勤交代を定めた。甲州道中を参勤交代で利用した大名は小藩の三大名だけであった。ちなみに文政4年(1821)の調査では、東海道146家、中山道30家、日光道中4家、奥州道中37家が通行した。伊那の高遠藩(譜代)の例をみてみよう。高遠藩内藤家の江戸屋敷は小川町に上屋敷、四谷に下屋敷があった。通常藩主は上屋敷で生活。下屋敷(当初は20万坪以上)はいまの新宿御苑。一部が「内藤新宿」になった。高遠藩の参勤交代は五月、六月には江戸へ。通常の行程は六泊七日かかった。道中の足軽用の食事(汁物・香物・豆腐など)は質素なものだった。なお江戸と国許を往復する行列の人数は石高によって決められていた。

新選組

 新選組の名前が世に知られたのが池田屋事件。元治元年(1864)6月、京都・三条大橋の池田屋で尊王攘夷派を襲撃した事件だろう。新選組の前身は浪士組。上洛する将軍・徳川家茂の護衛としてつくられた。京都に残った近藤勇、土方歳三らは京都守護職の松平容保のもとで市中見回りの任務につき、文久3年(1863)8月「新選組」を結成した。以後5年間、局長近藤勇、副長土方歳三、井上源三郎は六番隊長として京都市中の取り締まりにあたることになる。慶応4年(1868)1月には「鳥羽伏見の戦い」が起こり、新選組も参加した。この年の3月、新選組は「甲陽鎮撫隊」をつくり、新政府軍から甲府城を守るために江戸を出発した。甲州道中の上石原は近藤勇の故郷。八王子、鶴瀬と進んだが、近代装備の官軍に歯がたたず、総崩れとなり、新選組は解散した。

八王子千人同心

 千人同心を率いた千人頭の前身は武田家旧臣の小人頭である。武田氏滅亡後は徳川家康が小人頭と配下の同心を召しかかえた。八王子は家康支配下にあり八王子の治安維持などを担った。関ケ原の戦いの頃には千人となった。千人同心は千人頭10人に同心1000人がつき文字通り「千人同心」となった。千人頭の身分は旗本格で知行地を与えられた。一方、同心は半士半農の身分であった。当初、千人同心の役割は治安維持、国境警備など軍事集団の役割を担っていたが、幕藩体制が確立すると役割も変わってきた。その任務のひとつに日光東照宮の防火と警備がある。千人頭1人と同心50人が半年交代で務めた。この役目は慶応4年(1868)の千人同心解体までつづいた。また蝦夷地の開拓と警備についている。寛政12年(1800)には同心100人が蝦夷地に渡った。

※この用語集作成には『甲州道中宿村大概帳』(児玉幸多校訂)、『歴史の道調査報告書第五集/甲州道中』(東京都教育委員会)や他の自治体の教育委員会資料などを参考にした。なお、すでに完歩した「寄り道東海道」と「寄り道中山道」でも基本的な街道用語集を解説しているので参照されたい。

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