旅を終えて

 甲州街道の旅が終わった。中山道(約535km)は日本橋から38日間・787km(歩数計)かけて三条大橋まで歩いたが、甲州街道(約210km)は15日間・315kmかけてゴールの下諏訪まで歩いた。江戸時代の高遠藩内藤家の参勤交代は六泊七日で江戸に着いている。それに比べ、ぼくの場合はのんびりと寄り道しながらの旅だった。
 甲州街道は半蔵門から国道20号に沿って歩く。新宿にむけて歩くのだが、広大な新宿御苑はもともと内藤家の下屋敷だった。内藤新宿という宿場はあったが、いまはその面影もない。にぎやかな都内をすぎて三多摩に入る。小仏峠に近づくと川のせせらぎが聞こえホッとする。神奈川県、山梨県、長野県に入ると緑豊かな山に囲まれて旧道を歩く‥‥。今回で五街道のうち三街道を歩いたことになる。
 そこで甲州街道(江戸時代の正式呼称は甲州道中)で感じた点をいくつか挙げてみよう。
  1. 甲州街道は45の宿場があった。しかし、東海道や中山道とくらべ小規模な宿場が多く宿場間の距離も短い。公用の荷物、書状などの宿継ぎは、15日勤め、6日勤めなどの合宿(あいしゅく)や片道継立で行なった宿場もある。そのため一般に甲州街道は45宿32継(次)といわれている。
  2. 甲州街道のまわりは幕府領(直轄)が多い。公用通行者は幕府の役人、大名などであるが、参勤交代の大名は諏訪高島藩(3万石)、伊那高遠藩(3万3千石)、飯田藩(2万石)の小藩が通ったにすぎない。江戸中期以降になると甲斐・信濃から大消費地の江戸への農産物の物流が盛んになって中馬(私的物資の輸送業)が活躍している。
  3. 山梨県に入ると、路傍には馬頭観音、庚申塔、道祖神、地蔵尊などの石仏石塔が目につく。とくに丸い形のさまざまな丸石道祖神が目についた。なぜ甲斐には丸石が多いのか、あの丸石はなにを意味しているのか疑問はつきない。また中山道でみた双体道祖神は信濃に入るとやはり多い。
  4. 中山道でよくみた一里塚の原形はわずか二カ所(恋塚と御射山神戸)だけだった。53ある一里塚のほとんどは小さな跡碑か不明カ所が多かった。それより明治13年(1880)の明治天皇の巡幸(休憩所跡など)を示した大きな石碑が本陣跡脇などで目についた。石碑はどんな思いで建てたのだろうか。
 今回の旅もいろいろな人々と出会った。お茶を飲みながら雑談したり、道に迷い親切に道案内されたり、遠くの諏訪大社上社まで車で送って頂いたりなど、一期一会がたくさんあった。また11月中旬の信州の山々の美しい紅葉も忘れられない旅となった。


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