きょうから一泊二日の予定で甲州街道を歩く。JR甲斐大和駅8時スタート。駅の出口に平成14年に建てられた「武田勝頼公」の像がある。碑には「天正10年(1582)3月、武田勝頼ひきいる武田軍は織田・徳川連合軍との戦いで天目山栖雲寺をめざしたが、田野の地であえなく武田家の終えんを迎えた」とある。
前回は駒飼宿の大和橋西詰まで歩いたが、駅近くの諏訪神社に立ち寄り参拝した。本殿の彫刻(山梨県指定文化財)はみごとだ。この境内に丸石道祖神がある。大きな丸石、これは初めてみた。なぜ丸い石なのかわからない。
西詰をすぎるとすぐ駒飼宿と合宿(あいしゅく)の鶴瀬宿がある。ここには享和3年(1803)建立の常夜灯などあるが、宿の面影はみられない。しばらく歩くと長柿洞門脇の道から観音堂に通じる狭い旧道がある。倒木が道をふさぎ、くぐっていくと思った以上の大きな観音堂があった。この境内から歌川広重は絶景だと評したという。くねくねした崖道を下りるとき、重心が前のめりしそうだ。太い枝を棒にして慎重に下りた。
やがて「古跡武田不動尊」の標柱がみえてきた。落ち延びた武田勝頼が「武田の守り本尊」を里人に託したという「武田不動尊祠」が崖下にある。道は横吹集落の狭い道になる。路傍には丸石道祖神、小さな六地蔵などが並んでいた。丸石神は1個ではなく数個置いてある。静かな山里にリンゴがみのっている。
国道20号と合流し、左側はるか眼下に公園らしきものがみえてきた。「なんだろう?」と思って下りると、幅約38m・高さ20mの滝が勢いよく流れている。勝沼堰堤(登録文化財・近代化産業遺産)だ。日川流域が明治40年(1907)の大水害で一面砂礫の地となった。小さな公園はそれを記念したものだった。
近くにある開創1300年になる大善寺を訪ねた。参道ではなく脇道から上ると「武田勝頼滅亡記」を著した理慶尼が眠る五輪塔がある。さらに進むと13世紀建造の国宝・薬師堂が現れてきた。お寺さんの説明をうけながら拝観した。鎌倉時代制作の「12神将」などをじっくり観賞した。一つひとつが仏師の心意気を感じる。
ぶどうの産地・甲州市勝沼に入ってきた。これから長い道を下っていく。道路沿いには、ぶどう園のお店がたくさんある。お店の人に聞くと「今年は9月の長雨で甲州ぶどうは痛んでいる」という。
甲府盆地の東に位置している勝沼宿は、天保14年(1843)の宿村大概帳によると本陣1、脇本陣2、旅籠23軒、宿内人口は786人いた。本陣跡の老松などはあるが宿場の面影はほとんどない。しかし、江戸後期の豪商の商家(仲松屋)、明治20年ごろの三階造りの蔵、旧田中銀行社屋などが残っている。
この勝沼には、戦国時代の勝沼氏館跡(国史跡)がある。勝沼氏は武田氏の家臣で親族衆にあたる。15世紀からの館で、訪ねてみると外堀・土塁もあり広い敷地だ。1973年から発掘調査が行われて、礎石のある建物が多く確認されている。館跡に入ると、どこにどんな建物があったかなどがわかる地面に標識がある。永禄3年(1560)、勝沼信元は逆心を企てたとして武田信玄に滅ぼされた。
ふたたび街道にもどると、勝沼富町に「甲州ぶどう」の樹齢100年以上の古木があった。老齢化したぶどうは切り替えられるため古木は珍しいという。このあたりの路傍には丸石道祖神がよくみられる。大小10個以上の丸石もある。なにを意味しているのだろうか?
やがて栗原宿(山梨市)に入ってきた。宿場の面影はない通りをひたすら歩く。日川郵便局近くの「田安陣屋跡」(江戸幕府直轄領の役所)を訪ねた。老松と小さな社があった。山梨市の解説板によると「徳川吉宗(8代将軍)の次男・田安宗武が領地を六か国与えられ、そのうち甲斐は63か村で3万石、その後1.7万石が加えられた」という。
さらに歩くと笛吹川がみえてきた。笛吹橋(笛吹市石和)を渡ると松並木がある。この松並木は明治40年の大水害後に植えられたという。角地に笛吹権三郎の像がある。そのかたわらに大きな丸石道祖神がある。もう石和宿に入っている。石和南小学校正門前の「石和陣屋跡」の石碑と解説板を確認して、甲府駅前のホテルへ。明日は石和温泉入口からスタートする。