旅日記

10月20日(木)甲府柳町→韮崎へ 21.0km

 午前9時塩崎駅入口スタート。すぐに路傍で、文化15年(1818)建立の丸石道祖神や「三界萬霊塔」(色界・欲界・無色界)の石碑などが目についた。左側には旧名主の豪壮な建物がある。
 双葉西小学校近くに舟形神社がある。その前の石鳥居がとてもユニークだ。山梨県指定有形文化財で解説板によると「高さ2.53m、柱間は2.35m、柱の最大径は0.45mの規模です。‥‥柱は中央部が若干太く、丈が短いため安定感のある造りとなっている。室町時代前期に建立された貴重な建造物」とある。鳥居前に丸石道祖神がある。
 この近くに「一橋陣屋跡」があるはずだ。ご近所の人に聞いても「わからない」という。妙善寺前の田んぼに「陣屋跡」の解説板があった。これでは気づかないはずだ。「延享3年(1746)徳川吉宗の四男一橋宗尹が、‥この地に7年間置いた」陣屋跡である。
 塩川橋にむけて歩く左側に高い山々がみえる。南アルプスの鳳凰(ほうおう)三山だ。韮崎市に入ってきた。姫宮神社に「鏡石」がある。石の中央が丸くくりぬかれている。宝暦7年(1757)の建立で、この穴から富士講の信者が富士を遥拝したという。のぞいてみると富士山がみえる。この神社の隣には「船山河岸の跡」がある。「オーヤレヨー 韮崎宿は米の場所 御上米が船山河岸を乗りだす」と当時をしのぶ歌詞がある。天保6年(1835)釜無川の水を引き入れて河岸を築いた。富士川の舟運はここまで延長された、という。
 街道にもどると、商店前に小さな「馬つなぎ石」(馬の手綱を石の穴に通す)があった。このあたりは韮崎宿の中心だ。韮崎宿は天保14年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると、宿内家数は237軒、本陣1、旅籠17軒があった。いまは本陣跡の碑などはあるが、宿場の面影はない。韮崎駅近くに弘法大師が岩窟に観音石仏を安置したという雲岩寺窟観音を参拝した。洞窟のなかにはたくさんの石仏、千体地蔵尊などがある。洞窟をくぐってみた。あとで知ったのだが、この観音は七里岩の南端に位置している。
 昼食後、韮崎市役所を訪ねた。建物前に「武田信義像」がある。武田信義(1128-1186年)は甲斐源氏の4代目。武田氏の初代当主で、釜無川対岸の地は武田氏発祥の地となる。信義が開基した願成寺、信玄が再興した武田八幡宮などがある。そういえば韮崎市のマンホールには「武田の里」とあった。
 きょうはとても暑い。右手に七里岩をみながら街道をひたすら歩く。国道に合流した角地に石祠の「水神宮」(安政4年の建立)がある。さらに「十六石」というのがある。武田信玄が釜無川の水害から守るために治水工事で堤防の根固めに並べた巨石だ。生コン工場の敷地内に石祠三社が祀ってある。これも釜無川の水防を願っている。
 街道の右側は、崖山が延々とつづいている。あの崖の上はどうなっているのだろうか。地元の人に聞くと「道路が走っていますよ。住宅地はないです」と。七里岩は名前のとおり韮崎から蔦木までつづいている。20万年前、八ヶ岳の山体が崩壊してできたという。
 静かな通りを歩くとナマコ壁の家、茅葺の武家門がある。田んぼ脇の表面が赤い「南無阿弥陀仏」の碑は享保6年(1721)の建立だという。七里岩の高台には武田氏最後の城・新府城跡がある。後ろをふり返ると富士山がみえる。
 釜無川の穴山橋を渡り、しばらく歩くと秋葉山常夜灯がある。小武川橋を渡ると北杜市に入る。もう夕方5時。近くの旅館・近江屋に宿泊する。


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