旅日記

9月10日(土)小仏→小原・与瀬→吉野へ 18.2km

 朝8時の高尾駅前のバス停は長蛇の列。リュックを背負っている老若男女がバス停に並んでいる。平日の小仏峠行きは1時間に1本。土曜・日曜は3本。8時12分発はとても1台に乗り切れない。ハイカーたちがどっと押し寄せている。だが心配無用、もう1台同じ時刻のバスが用意されていた。
 8時40分小仏バス停を出発。ぼくはまず近くの宝珠寺にお参り。参道口には弘化4年(1847)建立の大きな馬頭観音がある。小仏のカゴノキ(都指定天然記念物)は幹回り4.3mもある。ここに寄るハイカーはひとりもいない。小仏峠への道はすぐ砂利道になる。標高548mだが、くねくねした道を歩き、やっと峠の頂上に着く。峠は武蔵と相模の国境だ。寛政7年(1795)の標識がある。
 小原(相模原市緑区小原)への道は杉木立の急坂を下っていくだけ。やがて道は広い小原の通りにでた。まず小原宿本陣(清水家)を見学。神奈川県で唯一残っている本陣の建物(県指定重要文化財)だ。ここを利用できたのは、信濃の高島藩、高遠藩、飯田藩の大名や甲府勤番の役人などだった。上段の間も残されている。暗い二階に上がると身近な民具がたくさんおかれていた。
 小原宿は本陣1、脇本陣1、旅籠7軒、宿内人口は275人(天保14年調べ)で、隣の与瀬宿とは合宿であった。ここは片継ぎ宿場(小仏宿から来た人や荷物を、与瀬宿を通り越して吉野宿まで継立、その代わりに江戸の方へ、与瀬宿から小原宿を通り越して小仏宿へ継立)ともいわれた(「小原本陣資料」より)。変則な公用人馬の問屋場業務といえる。
 小原からつぎの与瀬宿までは2kmもない。きょうもとても暑い。JR相模湖駅前で昼食休憩。この与瀬宿は本陣1、脇本陣なし、旅籠6軒、宿内人口は566人だった。坂本本陣跡から右に入っていく。中央道をくぐり、貝沢の木橋を渡ろうとしたが、丸太は腐り草もはえて危険と判断してやめた。別の道を歩くと、眼下に相模湖(戦後の人造湖)が見渡せる場所にでてきた。さらにすすむと路傍の石仏石塔群を何回かみた。やっと吉野宿(相模原市緑区吉野)についた。
 吉野本陣跡は明治29年(1896)の大火で焼失した。その前には、元旅籠の「吉野屋ふじや」(旧藤野町郷土資料館)がある。ここで一服して、ふたたび歩きはじめた。「東京から68km」の標識をみる。吉野橋の脇に「小猿橋」(現存せず)の解説板がある。山梨県大月市の猿橋と工法も形も似ていて規模が小さいだけだったという。元禄時代の記録によれば工事は大変だったらしい。
 やがて樹齢300年余の「エノキ」がみえてきた。エノキは街道の一里塚によく植えられた。藤野町の「エノキの説明」はあるが、ここに一里塚があったかどうかの解説もない。後ほど相模原市立博物館にお聞きすると、この地にかつて藤野一里塚(日本橋より17番目)があった、とのこと。
 つぎの上野原宿までいく予定だったが、暑さのため少々疲れ気味。JR藤野駅から4時半すぎ帰宅へ。次回は山梨県に入って、関野、上野原、鶴川などを歩く予定だ。


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