旅日記

11月15日(火)蔦木→金沢へ 17.8km

 今日から三日間かけて、寄り道しながらゴールの下諏訪まで歩く予定だ。午前9時すぎ前回の蔦木宿本陣跡からスタートした。蔦木宿(富士見町)は何回も大火にあっているが、旧宿場通りの民家には萬屋、常盤屋、提灯屋、木地屋、和泉屋などの屋号がかけられている。
 枡形跡の道を左にいくと一角に大きな観音講供養塔、廿三夜塔などの石仏石塔群がある。家の前を掃除している人に「なにかお祭りはしていますか」とお聞きすると、「いや、まったくないですね」とのこと。また近くにはコケの生えた石仏がたくさんある。
 あたりはすっかり紅葉している。歌人・森山汀川の住居跡を訪ねた。正岡子規の門を叩いて、後に汀川は島木赤彦らと活動している。
 しばらく田んぼの道を歩くと左奥に石碑がみえる。明治天皇が巡幸のときに休息した「平岡野立所跡碑」だ。明治天皇は全国各地を行幸されている。甲州・東山道は明治13年(1880)に巡幸している。甲州街道を歩くとよく「天皇御小休所碑」などをみかける。釜無川にそって歩くと、ここにも害獣よけの電流ネットがはられている。「危険さわるな」とある。
 国道20号にでると「東京から177km」の標識が目についた。再び旧道へ。このあたりにはたくさんの石仏石塔群がある。周囲の山々はみごとな紅葉で赤く染まっている。坂を上ると高台に白い建物がみえる。あれはなんの建物だろうか。近くにいくと障害者支援施設の「しらかば園」とわかった。
 上り坂から後ろをふり返ると、頂に雪をかぶっている富士山がみえる。路傍の石仏群に落葉が敷きつめられている。やがて47番目の塚平一里塚に着いた。標高標柱に「950m」とある。ずいぶん高い所に上ってきたものだ。旧道は通行不可のため、う回路の砂利道を歩く。右側土手にはフェンスがある。500m近く歩くとその正体がわかった。そこには太陽光発電のパネルが拡がっていた。
 原の茶屋をすぎると富士見公園がある。この公園には、アララギ派の伊藤佐千夫、斎藤茂吉、島木赤彦、森山汀川の歌碑や松尾芭蕉句碑がある。路傍にはかまどの神や鍛冶師の神など石仏が多い。日本には、いろいろな神様がいるものだ。
 坂道を下ると人家がみえてきた。国道20号に合流すると、右側に大きな石碑がある。明治の政治家、元鉄道大臣の「小川平吉生誕の地碑」だ。近くの神戸八幡社に立ち寄った。現在の建物は宝暦12年(1762)の建立で、本殿は一間社流造りになっている。境内のケヤキは高さ約30m、推定樹齢390年という。
 ふたたび旧道に入る。御射山神戸(みさやまごうど)一里塚がみえてきた。江戸から48番目で、富士見町教育委員会の解説板によると「東側にはエノキが、西側にはケヤキが育っていたが、東側は明治初期に枯れた」と。また西塚のケヤキは、慶長年間に植えられ推定樹齢380年余、目通り周囲6.9m、樹高は25m、樹勢はいまなお盛んとある(平成10年3月)。
 西塚のケヤキの下に石碑と「917m」という標高標柱がある。近くに寄ると風格ある一里塚の大ケヤキ、これは感動だ。よくここまで保存されたと思う。甲州街道の一里塚で記憶に残るのは犬目宿近くの21番目の「恋塚一里塚」だが、両塚ではなく片塚の原形だけだった。甲州街道の一里塚で両塚の原形が残っているのはこの御射山神戸一里塚しかない。
 下り坂を歩きながら、この一里塚の余韻がまだ残っている。午後4時すぎ、近くのJR青柳駅に到着した。あすは金沢宿(茅野市)、上諏訪宿(諏訪市)を歩く予定だ。


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