旅日記

9月1日(木)日本橋→内藤新宿→高井戸へ 25.5km

 朝7時の日本橋。すでに日本橋から京都・三条大橋まで東海道、中山道を踏破したので、ひさしぶりに今日から甲州街道(甲州道中)を長野県の下諏訪めざして歩くことになる。どんなひとり旅になるだろうか?
 「日本橋の上に高架がないと景色は変わるだろうな」と思いながら、和田倉門へ歩きはじめた。東京駅の大丸通用口に「遠山の金さん」で知られている「北町奉行所跡」がある。都の旧跡で文字がかすれた案内板があるだけだ。ちなみに「南町奉行所跡」は有楽町駅前にある。東京駅構内を通って、北口にでると高層ビルが立ち並ぶ。江戸時代このあたりは親藩・譜代の大名屋敷が多くあった。皇居(江戸城)のお濠に沿って歩くと白鳥が二羽泳いでいる。
 やがて桜田門がみえてきた。幕末の不穏な時代、大老の井伊直弼(彦根藩)が水戸浪士らによって門外で暗殺されている。左手には、赤レンガの法務省、また警視庁がみえる。朝から気温がグングン上がっている。この暑さの中、皇居をランニング(一周約5キロ・反時計回り)する人たちに出会った。
 半蔵門がみえてきた。この門は甲州街道(現国道20号)への入口にあたる。門内は吹上御苑と呼ばれ、御所、宮中三殿などがあり、一般人の通行はできない。半蔵門から西へ歩くと四谷見附にぶつかる。その昔、ぼくは千代田区内に勤務していたので、この付近の地理感覚はある。四ツ谷駅前の四谷見附跡は、江戸城警備の城門だった。いまも石垣が残っている。
 四谷2丁目近くにある愛染院に立ち寄ってみた。このお寺さんには、江戸時代に盲目の国学者として活躍した塙保己一(はなわ・ほきいち)の墓がある。塙(1746-1821)は現在の埼玉県本庄市生まれ。7歳で失明し、江戸で歴史研究をした埼玉の偉人のひとりになっている。また内藤新宿を開設した高松喜六の墓がある。墓石の案内板がないので、みつけるのに一苦労する。
 内藤新宿は、日本橋から次宿の高井戸まで4里と長いため、元禄12年(1699)に新設された。だが、20年後には旅人の通行が少ないことを理由に廃止。54年後の明和9年(1772)に宿場業務が再開されている。天保14年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると宿内家数は698軒、本陣1、脇本陣0、旅籠24軒があった。
 伊那・高遠藩主内藤家の菩提寺の太宗寺には「江戸六地蔵」のひとつがある。現在の新宿御苑は内藤家の下屋敷になっていた。この境内に「塩かけ地蔵」がある。地蔵さんの顔や胴体に塩がかけられている。これは珍しい。舐めてみると、確かに塩だ。なんのための塩かけだろうか?
 近くの成覚寺にも寄ってみた。ここには男相手の飯盛女(子供と呼ばれていた)を弔うための「子供合埋碑」がある。万延元年(1860)に旅籠屋中で造立したという。案内板には「宿場町として栄えた新宿を陰で支えた女性たちの存在を物語る歴史資料」と書かれている。
 新宿駅南口に出て国道20号に沿って歩く。その上を二重三重の高速道路がある。暑さと車の騒音に悩まされながらひたすら歩くことになる。笹塚では江戸時代の交通安全祈願の「道供養塔」(文化3年)がある。これまた珍しい。
やがて明大和泉キャンパス(わが青春時代の学び舎)がみえてきた。西隣には築地本願寺の和田堀廟所がある。この付近は、江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)跡であった。
 さらに歩くと下高井戸宿と上高井戸宿に着いた。この間の距離は約1.6km。そのため宿場は「合宿(あいしゅく)」といわれ、問屋場(公用の人馬、飛脚の引継ぎ)業務は「下・上」で月のうち半々を務めた。甲州街道は45宿もあるが、荷物を引継ぐ宿駅業務は交替が多く、宿継は32次といわれる。午後5時半、京王線八幡山駅から帰宅へ。


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