朝7時半、北杜市牧原交差点スタート。大武川橋を渡り国道20号を歩く。きょうもいい天気。だが、昨日とくらべ気温が低い。右前方に甲斐駒ケ岳(2967m)がみえる。道路標識をみると「日本橋から161km」とある。旧道に入り、まずは神明社で旅の安全を祈願した。傍らにかわいい地蔵尊二体が祀ってある。
やがて「甲州街道古道」の草道に入る。すぐ右側に「横山道標」がある。馬頭観音三基の内二基は道標を兼ね側面に「右かうふみち」「左はらぢ道」と記されている。解説板には「古府中より穴山、日野を経て台ケ原村へ通じる道で、後にはらぢみちともいわれていた昔日の主要道路」とある。近くの小高い丘に「大石塔」がある。江戸から明治にかけてシュロ縄で運んだとある。
果樹園脇の草道を通りすぎると台ケ原宿(北杜市)入口に着いた。きょうから三日間ここ台ケ原宿で第14回骨董市が10時から開かれる。和骨董、アンティーク、食べ物屋などが集まっている。台ケ原の宿並みは、甲州街道のなかでは最も当時の雰囲気を残している宿場。1986年に「日本の道百選」に選ばれている。だが、きょうは道路にたくさんお店が並んでいて、なかなか宿場の雰囲気がつかめない。
豪壮な建物の酒蔵「七賢」はすぐわかる。山梨銘醸(北原家 )は寛延3年(1750)創業で、いまの建物は天保6年(1835)に建てられた。建物のなかに入ってみたが、あちこちに骨董市のお店がでている。敷地も広い。七賢前には信玄餅の老舗「金精軒」がある。元は旅籠だった。ここで信玄餅を買う。
台ケ原宿は天保14年の宿村大概帳によると本陣1、問屋場1、旅籠14軒、宿内家数は153軒、人口は670人、宿場の長さは9町余であった。
人混みの台ケ原宿を離れてふたたび静かな街道を歩く。左側にくっきりと甲斐駒ケ岳がみえる。地元の人がお茶のみ話をしている。声をかけると椅子をだされた。お茶を飲みながらしばし雑談。下り坂の小さな祠に双体道祖神が祀られていた。その前に丸石もおかれている。小さな鳥居の「武田神社」は、ぶどう畑にある。畑に入ると、そこには多くの石仏石塔があった。なぜ畑に石仏? 疑問は残ったがそこには歴史があるにちがいない。
この近くの公園の奥に「白須松原跡碑」がある。かつて一里にわたり松原がつづいたというが、戦時中に松根油採取のため伐採されてしまった。その傍らに宗良親王(南北朝時代の南朝方)の歌碑がある。ここにも丸石道祖神があった。
教来石宿場にやってきた。台ケ原宿から約5キロ余だ。教来石(きょうらいし)は本陣1、脇本陣1、旅籠7軒の甲州最後の宿場だった。下教来石を左に入ると畑のなかに巨石(経来石)がみえる。この大石の上に馬頭観音四基、双体道祖神一基が祀られている。ここが地名の由来らしい。
もどって旧道に入る。はるかかなたに八ヶ岳がみえる。小さな諏訪神社に立ち寄った。本殿は一間社流造りで、天保15年(1844)に再建された。棟梁は諏訪出身の立川という人だ。まわりは金網が張られてよくみえないが、大きな酒つぼ、女性二人など見事な浮き彫りが施されている。
静かな街道を下りていくと多くの石仏に出会う。近くには松尾芭蕉と同門の山口素堂生誕地跡の石碑がある。下り坂の両脇には、武田信玄が設けた「鳳来山口関跡」と幕府が設置した「西番所跡」碑がある。もうすぐ甲斐と信濃との国境だ。
釜無川をまたぐ国界橋への道がある。工場内だが念のため聞くと「通行止め」になっているという。あきらめて新国界橋を渡った。下蔦木信号左に国界橋がみえる。橋の入口にはネットが張ってある。よくみると「緑のネット部分は電気が流れていませんので、ここを持って開閉してください」とある。どうやら鹿や猿が長野県側(富士見町)に入ってくるのを予防するための電流ネットだ。まったく通れないわけではなかった。
教来石から蔦木宿(富士見町)まで約5キロ。このあたりの標高は731m。真福寺脇をとおって狭い道を歩く。畑のなかに小さな壊れた石祠がある。畑仕事をしている人に挨拶して写真を撮ろうとした。「いい写真を撮ってね。なかを開けてみて、男のシンボルもある」と教えてくれた。そこには双体道祖神と陽物があった。近くの「応安の古碑」にはたくさんの石仏がある。坂を下ると「蔦木宿」の看板がみえてきた。ここにも道祖神がある。石祠のなかには陽物が二体祀ってある。これは珍しい。
ここ蔦木宿は天保14年(1848)の甲州道中宿村大概帳によると本陣1、旅籠15軒、宿内家数は105軒あった。蔦木の宿駅は慶長16年(1611)頃つくられ、枡形道は南北の入口に設けられた。城下町と同じ枡形のつくりだ。宿並みは6回も大火に見舞われている。そのため宿場の面影はないが、元治元年(1864)の大火後に建てられた本陣門が残されている。
すでに午後4時。上蔦木からの交通の便は3キロ離れた信濃境駅(標高921m)しかない。くねくねした登坂のためタクシーを利用した。