旅日記

10月14日(金)石和→甲府柳町へ 21.2km

 朝7時半、石和八幡宮からスタート。この社は武田家の氏神だったが、天正10年(1582)織田軍の兵火で焼失した。翌年徳川家康によって再建されたという歴史がある。
 平等川を渡ると和戸町がある。甲運小入口バス停に大小の石が置かれた丸石道祖神や石塔があった。さらに数キロひたすら歩くと「山崎刑場跡」(甲府市酒折)がある。ここは江戸中期からの断首場、首洗い井戸、骨捨て井戸があった。いまは六地蔵、供養塔などが狭い空間に集まっている。
 山梨学院大学前を通りすぎ、線路をまたいて酒折宮に寄ってみた。境内には江戸後期の国学者である本居宣長の撰文、平田篤胤書による酒折宮詞碑がある。残念ながら石碑は漢文で読めない。
 街道にもどると「ぬりこめ造り」の石川家住宅がある。その塀内に道祖神があった。近くの天尊躰寺を訪ねた。この寺には甲斐奉行を務めた大久保長安の墓がある。もうひとつ「目には青葉山ほととぎす初鰹」で知られる山口素堂の墓をみたいと思った。長安の墓は案内板がありすぐわかった。だが松尾芭蕉と同門の素堂の墓がわからない。ブザーを押して、案内していただいた。それは無数ある墓の一角にあった。
 鹿革製品でしられる印傳屋をすぎると甲府柳町宿に入る。甲府城の南が宿場だった。天保14年の宿村大概帳によると宿内家数は209軒、本陣1、脇本陣1、旅籠21軒があった。いまや都会の大通りとなって宿場の面影はない。甲府市は1945年7月、米軍B-29の爆撃で市街地の74%が焼かれ、死者は1,127人にのぼったという。いま甲府市の人口は19万人余。甲府盆地の中心だ。
 大通りに「かんかん地蔵」という甲斐源氏の流れをくむ平安時代の武田有義の墓(法輪寺)がある。近くには穴切大神社がある。本殿は桃山時代の一間社流造り(国指定文化財)になっている。
 街道沿いに山梨県立美術館がある。うれしいことに65歳以上は無料だ。ここの美術館はJ.F.ミレーの絵で知られている。時間の関係もありミレーの作品のみを鑑賞することにした。ボランティアのガイドさんに解説をお願いした。おなじみの「落ち穂拾い、夏」「種まく人」「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」などミレーの作品には農民画が多い。わずかな時間だったが至福の時をすごせた。
 中央道の高架をくぐると甲斐市に入る。このあたりは道祖神が多くある。JR竜王駅近くの丸石道祖神には説明板がある。それによると「丸石神体径45cm、文政7年(1824)建立。江戸時代は寄り合い場」だった。近くの称念寺(慶長11年建立)には、一枚岩で加工された「くり抜き石枠井戸」がある。上水道ができるまで、この井戸は付近集落の生活用水として使われていた。
 街道はなだらかな坂になってきた。道路沿いに大きな石に「南無阿弥陀仏」の碑がみえる。幕末の念仏講の世話人などの名前が裏面にある。後ろをふり返るとかなたに富士山がみえる。赤坂台病院をすぎると、草に覆われたトタン屋根のなかにひっそりと地蔵尊や供養塔がある。坂を下ると下今井の町並みに入る。
 角地に庚申塔道標が二つある。ひとつは弘化3年(1846)の「右市川、左甲府」と刻まれている。もう一つは元禄時代のもので読めない。真向いには風化した双体道祖神がある。ここ下今井の町並みには「なまこ壁」の家が数軒みられた。さらに路傍には双体道祖神が祀られている。
 JR塩崎駅近くに「泣石」がある。甲斐市の解説板によると「天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、‥‥。その途中、勝頼夫人はこの地で燃える韮崎城をふり返り涙を流した」という。すでに午後4時半をすぎた。塩崎駅から帰宅へ。次回は韮崎から長距離の台ケ原(北杜市)にむけて歩く予定だ。


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