旅日記

9月21日(水)吉野→関野→上野原→鶴川→野田尻→犬目へ 21.5km

 昨日まで台風16号の影響で雨の連続であった。JR藤野駅7時半スタート。駅前交差点の階段下から旧街道がある。相模川は増水のため濁っている。このあたりに来ると周囲は山だ。
 関野宿(相模原市)の宿並みは明治22年(1889)の大火などで焼失し、宿場の面影はない。ここは甲斐国・上野原宿に通じる最後の宿場だった。やがて道は滝沢橋へ。手前の右に歩けば山梨県上野原市に入る。坂の途中に「諏訪番所跡」がある。この番所では「通行取締りと物資出入り調べ。鶴川渡し場取締り、通行手形改めなど」を行なっていた。
 街道歩きでよく路傍の地蔵尊をみかけるが、慈眼寺に「愚痴聞き地蔵尊」という名の地蔵さんがあった。しばらくすすむと「塚場一里塚」の案内板がある。日本橋から18番目にあたる。説明には「塚の上にはカヤの木が植えられていた」とあるが、いまや塚の跡形もない。また同一場所には疱瘡神社(皮膚病などのご利益)の案内板もある。
 山梨県上野原市街に入ってきた。旧上野原村鎮守の牛倉神社に立ち寄った。境内には杉の巨木がある。宮司さんにお聞きすると樹齢500年以上という。上野原宿も宿場の面影はない。上野原宿は宿内人口784人、本陣1、脇本陣2、旅籠20軒(天保14年調べ)あったが、明治・大正の大火で宿並みは焼失した。道路から奥まった所に立派な本陣跡の門があった。
 近くの上野原小学校に「大ケヤキ」がある。許可を得て校庭に入ってみた。ケヤキは推定樹齢800年以上、高さ28m、目通り8.6m、根回り10.2mで、国の天然記念物に指定されている。よくみると主幹は、落雷なのか空洞になっている。それでも枝に勢いがある。まさに在校生・卒業生にとってシンボルだ。学校の隣には大正時代に造られた「月見ケ池」(ため池)がある。
 旧道を歩いてつぎの宿にむかう。うれしいことに、肝心なところに「旧甲州街道」の矢印がある。鶴川宿は上野原から2kmもない距離だ。ここはアユが名物だったという。いまや宿場の面影はないが、静かな町並みだ。鶴川神社に寄ってみた。とても急な石段だ。境内には宿場にあった「駒つなぎ石」が移設してあった。
 ふたたび旧道を歩く。道が寸断され、ときどき中央自動車道を渡ることがある。眼下をみると車が猛スピードで通過していく。やがて「大椚(おおくぬぎ)一里塚跡」についた。ここも石碑と解説板だけだ。解説によると、現在地より中央道に近いところにあったという。さらに歩くと路傍には、安永6年(1776)建立の常夜灯、文政2年(1819)の念仏供養塔がある。また石仏石塔群のなかに、中山道でよくみかけた双体道祖神があった。
 しばらく中央道に沿って歩くと「長峰砦跡」の碑がある。武田信玄が甲斐国の東口を北条の侵略から守るためこの地に砦を築いた。この砦遺跡は中央道にまたがっていたことが発掘調査で確認されている。ふたたび中央道をまたぐと野田尻宿に着く。ここは旅籠9軒という小宿で、明治19年(1886)の大火で宿並みは焼失している。
 静かな町並みで、ときどき2階の軒が前面に深く張り出している民家をみつけた。この建築は「甲州出桁造り」というそうだ。また「上野原デマンドタクシー停留所№○○」という標識がある。バスの便も悪く、車の免許証もない人にとっては便利なシステム。利用するには事前の利用者登録が必要だという。
 やがて日本橋から20番目の「荻野一里塚跡」の案内板が目についた。この塚は「人夫や馬を借りる時の駄賃を決める基準にもなり、明治34年中央本線が開通するまで利用されていた」という。
 矢坪橋を渡ると矢坪坂の「古戦場跡解説」前の細い坂道を上がる。はるか下には談合坂サービスエリアがみえる。自宅前に「あずまや」をもつ人と雑談した。景色がいいのでここでお茶のみ話ができるし、冬はストーブもある、と。すでに午後3時半。犬目宿をめざして、雨でぐしゃぐしゃの細道を上る。途中、「座頭ころがし」の標識があった。二人の座頭(目の不自由な人)が声をかけあって難所にさしかかったが、一人は谷に転落してしまったという。
 やっと人家がみえてきた。かつて犬目宿(上野原市)があったところだ。この地は葛飾北斎の「富嶽三十六景甲州犬目峠」で有名な宿場だ。富士山の眺望は抜群だというが、あいにくの曇り空。もう午後4時半。最近、日没が速い。ましてや山中は危ない。ラッキーなことに1日数便しかないJR四方津駅行きバスに乗れた。


TOP