旅日記

9月27日(火)犬目→鳥沢→猿橋→駒橋→大月→花咲→初狩へ 24.8km

 四方津駅に朝7時半着。犬目までのバスはまだ1時間もある。ひさしぶりの太陽だ。時間が惜しいので犬目バス停までタクシーを利用した。
 天保14年(1843)の宿村大概帳によると、犬目宿は本陣2、旅籠15軒の小さな山間の宿場だった。この犬目には義民「犬目の兵助」の生家の解説板がある。天候不順による天保の大飢饉で「こぬか、ふすま、種子まで食べつくし、餓死者が日に増して悲惨な状況」のなか甲州一揆(郡内一揆)が天保7年8月に起きた。犬目村の兵助などが頭領になって一揆を起こした。
 いまは宿場の面影はない。ラッキーなことにきょうは晴天。高台の宝勝寺に上ると富士山がみえる。さらに近くには日本橋から21番目の「恋塚一里塚」(山梨県史跡)がある。南塚だけだが、原形をよく残している。中山道では原形を残した両塚をよくみかけたが、甲州街道では初めてだ。さらにわずかな距離だが、風情を感じる石畳の道もある。坂を下ると大月市境から富士山がくっきりみえる。葛飾北斎の「犬目峠の富士」は有名だが、実は犬目峠はないそうだ。このあたりからのスケッチだろうか。
 路傍の石仏をみながら細道を歩く。やがて下鳥沢の町並みにでた。この通りには上野原市でみた軒が深く張り出した民家が何軒もある。鳥沢小学校の校庭に「コノテガシワ」という大月市の天然記念物の巨樹がある。「葉はヒノキに似て、表裏の区別がつかなく、子どもが手のひらを立てるように側立する性質がある」という。
 わずかしか歩かないのにもう上鳥沢宿だ。どこからが「下」と「上」の境なのかわからない。下鳥沢宿と上鳥沢宿は合宿(あいしゅく)で問屋場業務は月の半分ずつ務めた。本陣跡の面影はないが、跡地には「明治天皇」の碑が建っているのが多い。横吹団地をすぎると眼下に桂川がみえてきた。やがて新猿橋に着いた。
 回り道して、江戸時代の日本三奇矯(周防の錦帯橋、木曽の桟)のひとつ「猿橋」を渡った。猿橋は高さ約31m、幅3.3m、長さ約31m。戦国時代から何回も架け替えられている。現在の橋は昭和59年(1984)のものだ。猿橋では、東京からだという歴史散策グループ十数人と大月駅までつかず離れずのコースを歩いた。
 やがて駒橋宿に着いた。かつて旅籠だった家しか印象が残らない町並みだ。この宿場は宿内家屋85軒、旅籠は4軒しかなかった。猿橋から約1.5km、駒橋宿から大月宿まで2kmもない。大月宿も本陣1、脇本陣2、旅籠2軒しかない小さな宿場だった。右側に小高い岩山に「岩殿城跡」(武田氏重臣・小山田信茂の居城)がみえてきた。
 途中、大月市役所に立ち寄って甲州街道のパンフレットをいただいた。大月市は人口約2.5万人、面積は280k㎡。甲州街道45宿のうち12宿が大月市に位置している。ちなみにぼくの住む所沢市は人口34万人余、面積は72k㎡。
 大月宿から2km弱でもう下花咲宿に入る。路傍には天保13年(1842)建立の芭蕉句碑「しばらくは花の上の月夜かな」、庚申塔などがある。近くに星野本陣跡がある。江戸末期の本陣建築を伝える星野家住宅(国重要文化財)は休館のため見学ができなかった。外から見ても立派な建物だ。
 この下花咲と上花咲の距離は600mぐらいしかなく、合宿で問屋場業務は月の半分を互いに務めた。上花咲バス停近くには「二十三夜塔」、数多くの石仏石塔群が並んでいた。道路拡張だろうか、あちこちから集めたにちがいない。
 下初狩への道をひたすら歩くと、真木諏訪神社がある。階段を上がると本殿がある。文政10年(1827)建立の一間社流造りで、板壁外面はみごとな彫刻だ。四面の板壁装飾をみて、江戸時代の彫り職人の意気込みが感じられた。
 初狩駅まであと数キロだ。中央線に沿ってススキの道を通り、下初狩宿についた。「山本周五郎生誕之地碑」をみて、午後5時半すぎJR初狩駅へ。


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