旅日記

10月2日(日)初狩→白野→阿弥陀海道→黒野田→駒飼へ 22.1km

 朝8時半、JR初狩駅前をスタート。自宅をでるときに「大月市の天気」をみると曇り。だが、駅を降りると晴れている。今年9月の日照時間は平年よりはるかに少ない。きょうは笹子峠越えがあるので雨具は用意している。
 うれしいことに宮川橋から富士山の頂がわずかにみえる。ここは中初狩宿だが、下初狩宿と合宿で問屋場業務は月の半分ずつ務めた。小林本陣跡の門と明治天皇の休息した碑がある。しばらく歩くと「小山田信茂首塚」(岩殿城主)の矢印がある。道路から離れたところに、武田勝頼を裏切り信長に寝返ったため信長に斬首された、という首塚の碑があった。
 30分も歩くともう白野宿だ。甲州道中宿村大概帳によると旅籠屋は4軒で、阿弥陀海道宿と黒野田宿の三宿で一宿として問屋場業務を分担していた。川沿いの「白野一里塚」に寄ってみると、草むらに標識と双体道祖神があった。静かな町並みは宿場の面影はない。通りの民家の人に声をかけてしばし雑談。お宅に入ると築100年という家の大黒柱は太く間取りも広々としている。
 甲州街道ではよく路傍の石仏石塔をみかける。石仏はかすれて読めない、年代も彫られていないのが多い。立石の馬頭観音群のなかに、馬の好物なのか「ニンジンと藁(わら)」がそなえられていた。このような供物は初めてみた。       
 阿弥陀海道跡で珍しい六地蔵があった。ご近所の人に「六地蔵をみたか?」と聞かれ、「いや、四地蔵はあったが‥‥」と答えたが、もう一度ひきかえしてよくみると、確かに一枚の石に六地蔵が彫られているのがある。また笹子駅近くでは「笠懸地蔵」をみた。安政2年(1853)建立で、天保の大飢饉による窮乏を地蔵に心願したのだという。
 黒野田宿は笹子峠越えを控えて旅籠屋は14軒あった。いまは天野本陣跡の門と明治天皇行在所の碑ぐらいしか面影がない。道は川に沿って歩く。「やまめ・いわな・ます類(H28.10月1日→H29.2月末)河川全域禁漁」の看板が目につく。
 道は坂を上っている。「矢立の杉」めざして、杉林の峠道に入る。せせらぎの音を聞きながら山道を歩く。小さな木橋を渡ると三軒茶屋跡に着いた。すぐ近くに「矢立の杉」がある。山梨県(指定天然記念物)の案内板によると「根回り幹14.80m、目通り9m、樹高約26.50m」(昭和50年)と書いてある。推定樹齢は千年といわれ、根元が空洞になっている。
 旧道はこの大杉の細い脇道から下りていく。こんなところに道があるのだろうかと疑心暗鬼になる。沢に下りて苔むした丸太橋を渡り、さらに道なき道の急坂を上って尾根を歩く。こんなところで転がり落ちたらと、携帯電話をみると「圏外」、慎重に足を運んだ。やがて舗装道路がみえてきた。
 目の前はレンガ造りの笹子隧道(登録有形文化財)だ。全長239m、幅3m、高さ3.3mで昭和13年に開通した。笹子峠の標高は1096m。このトンネルはこの峠の直下を通っている。右側の峠道をやめて真っ暗闇のトンネルを歩いてみた。かすかに出口の光がみえる。「ヤーホー、ヤーホー」というと声が響く。出口は甲州市になる。
 ガードレール脇の隙間に「甲州街道峠道」の矢印がある。下りていくと、道がみあたらない。人の足跡を探して「感を頼り」に歩くしかない。不安がよぎる。戻ろうかと迷う。やがて丸太橋があった。「歩行注意。1人ずつ」とある。ヤレ、ヤレ、ここが旧道だろうと進む。ふたたび苔むした丸太橋があった。渡るとき足がすくむ。慎重に渡りおえた。若くないので、雨だったら歩くのはむつかしいと思った。やっと笹子沢砂防ダムにでた。わずかな距離だが、矢印から40分以上かかってしまった。
 すでに午後4時半近い。あとは県道にでて長い坂を下っていくだけだ。日曜日だというのに、峠越えではついに人に会わなかった。県道では車も走っていない。道路右側の谷底から川の流れが聞こえてくる。
 何キロも歩いて、やっと駒飼の集落に着いた。「津島大明神」「芭蕉碑」をみて、駒飼宿を歩く。甲州市の解説板には「笹子への道の往還を、人が休み、その名の通り馬が餌と水を与えられた宿場」とある。駒飼宿とつぎの鶴瀬宿とは合宿であった。さらに坂を下りて、やっと大和橋西詰に到着。近くのJR甲斐大和駅から午後6時帰宅へ。次回は鶴瀬、勝沼などを歩く予定だ。


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